さまざまな作品で主演をつとめ、最近では久しぶりの紅白歌合戦出場でも注目をあつめている、篠原涼子さん。
アラフィフとは思えないほど透明感があり、明るい笑顔が印象的ですが、実は複雑な家庭に育ったと言われています。
今回は、篠原涼子さんの家族構成について、調査しました!ぜひ最後まで御覧ください。
篠原涼子の家族・兄弟構成を調査!
篠原涼子さんは、両親とお兄さん、お姉さんの5人家族で生まれ育ちました。
しかし、篠原涼子さんがまだ幼い時に、お母さんがこの世を去ってしまい、しばらくは父が男で一つで子供たちを育てていたそうです。
その後、篠原涼子さんが小学校6年生のときに、父親が再婚したため、また5人家族になりました。
いつも天真爛漫な愛されキャラクターの篠原涼子さんですが、とてもつらい経験をしていたのですね。
お兄さんは6歳上、お姉さんは3歳上ということが分かっていますが、一般人のため、名前や職業、顔画像などは不明です。
2022年2月に放送された、『A-studio』には、お兄さんが特別にインタビューを受けていました。はっきりと顔は分からなかったものの、篠原涼子さんと似ているという声もありました。
早くに実の母を亡くしているので、兄弟の絆は強かったでしょうね。
父・勝雄さんも、3人の子供を男手ひとつで育て、歌手を目指す篠原涼子さんを献身的にサポートしています。
篠原涼子の父親はヤクザ?幼少期に亡くなった母親の死因は?
篠原涼子さんのお父さん・篠原勝雄さんは、1993年生まれです。
もともと料理人をしていたようで、その後は寝具のセールスマンとして働いていました。
篠原涼子さんの得意料理は、すべて篠原勝雄さんから伝授されています。
篠原涼子さんは、中森明菜さんにあこがれて、中学生のときに歌手を目指すため、オーディションを受け始めます。
オーディションに着ていく服は、父が毎回チェックしていたそうですよ。
また、脚に切り傷ができたときは、「芸能界にはいったときに、変な脚だっていわれちゃう」と、毎晩脚にクリームを塗っていたそうです。
履歴書も一緒に書いて、送る写真も、どれが一番可愛いかを選んでいたそうですよ。
そんな苦労が実り、『恋しさとせつなさと心強さと』が220万枚のメガヒットとなると、優しかった勝雄さんは、「『いい気になるなよ。いまあるのはスタッフのおかげ。感謝しなくちゃ』といつも言ってましたね」(篠原家知人)と、急に篠原に厳しく接するようになった。
週刊女性より引用
しかし、大好きなパチンコ店で篠原涼子さんの歌がかかると、店中のお客さんにジュースをご馳走していたそうですよ。
篠原涼子さんが市村正親さんと結婚した当初は、挙式・披露宴を開かなかったのですが、入籍から5年後の2010年8月に執り行ったそうです。
篠原涼子さんの地元である、群馬県太田市の「ロイヤルチェスター太田」を貸し切り、親族約50名を招いておこなわれたそうです。
実はこのとき、父が糖尿病から肝臓疾患を患い、入退院を繰り返していました。
もう先が長くないと言われていたため、市村正親さんが提案し、ささやかな会を開催したそうです・
県内の病院に入院していたお父さまのために、ソファなど体を休められるスペースを確保。地場の新鮮な野菜をふんだんに取り入れて、体調にあわせた特別メニューで対応させていただいた。
週刊女性より引用
このとき篠原涼子さんが、ウェディングドレス姿を披露し、父は涙を流して喜んでいたそうです。しかしそれから3日後、天国へ旅立たれました。
お父さんは、篠原涼子さんの結婚に強く反対していましたが、2008年に孫が誕生すると、大変な可愛がり様だったそうです。
父はヤクザって本当?
篠原涼子さんの父親ですが、ヤクザではないか?という噂があります。
しかし、これについては明確な情報はなく、ガセネタである可能性が高いです。
大手掲示板に、「篠原涼子さんの父親がヤクザ」などと、根も葉もないことが書き込まれたことが、原因のようですね。
篠原涼子さんは過去に、実家が貧しかったため、イジメにあっていたことを明かしています。
父がヤクザであれば、いじめられることもないでしょうね。芸能人はなにかと、反社会的勢力との関係が噂されますが、とんだガセネタだと思います。
母は事故死していた
篠原涼子さんの実の母親は、篠原涼子さんがまだ2歳のときに、交通事故でこの世を去っています。
まだ幼かったため、篠原涼子さんは母親の記憶はほとんどないそうです。
父親が男手ひとつで育ててくれました、3歳上の姉が母親代わりをしてくれたそうですよ。
小学生のときには、週1でお弁当の日があり、中学生だった姉がお弁当を作ってくれたそうです。
ウインナーや海苔入りの卵焼き、ちくわにチーズやキュウリが入っていたりと、素朴なお弁当がとてもうれしかったそうです。
その後、篠原涼子さんが小学校6年生のときに、父が再婚したため、篠原涼子さんには義母ができました。
新しい母親は、スナックを経営していたそうで、篠原涼子さんはそこで歌の練習をしていたそうですよ。
新しいお母さんも、篠原涼子さんの夢を応援していたのでしょうね。
ただ父親の再婚をきっかけに、篠原涼子さんはヤンキーになった時期もあったそうで、継母との関係性で悩んでいたこともあったのでしょう。
篠原涼子の実家は群馬県桐生市?生い立ちは?
篠原涼子さんは、群馬県桐生市広沢町出身です。
群馬の自然に囲まれて育った篠原涼子さんは、幼少期はおてんばな少女で、市民プールや河原で遊んだり、虫取りをしていたそうです。
男の子を子分に従えていた時もあり、真似をして立ちションに挑戦したこともあったそうです(笑)
しかし、実家が貧乏だったことで、いじめにあっていたこともありました。
篠原涼子さんは、「目の体操」という体操を授業で習い、茶臼山をよく見ていたので、今でも撮影の合間に空を眺めるそうですよ。
小学生の頃から、中森明菜さんの大ファンで、「同じステージに立ちたい」と思っていたそうです。当時は、部屋中に中森明菜さんのポスターを貼っていました。
中学時代は、父の再婚でグレたこともあり、やんちゃなグループに入っていたそうですよ。
髪の毛を明るく染めて、失敗して緑色になってしまい、先輩に呼び出されたこともあったとか。
高校に進学後は、パン屋や釜飯屋、ステーキ屋でアルバイトをしていました。
また、年上の彼氏が車で送迎してくれたそうで、当時からかなりモテモテだったのですね。
そして、高校1年生のときに事務所のオーディションに合格し、高校を退学して単身上京しています。
篠原涼子さんは、高校を中退することに抵抗は無く、それよりも早く稼ぎたかったそうですよ。
16歳で、「東京パフォーマンスドール」として、デビューしました。
デビューから半年間は、事務所に言われて寿司屋でアルバイトをしていたそうです。ゴキブリが出るような6畳の部屋で、メンバーと共同生活を行っていました。
1991年12月からは、『ダウンタウンのごっつええ感じ』にレギュラー出演し、コントに挑戦する姿が、人気を博しました。
1994年7月、小室哲哉さんのプロデュースで、「篠原涼子 with t.komuro」の「恋しさと せつなさと 心強さと」を発売します。
これがロングヒットとなり、ダブルミリオンを記録。第36回日本レコード大賞優秀賞を受賞し、『第45回NHK紅白歌合戦』にも出場しました。
それ以降は思うようなヒットに恵まれなかったものの、女優としては大成功をおさめ、数々の作品で主演を務めるようになりました。
まとめ
今回は、篠原涼子さんの家族構成について、紹介しました。
両親と兄、姉の5人家族で生まれ育ち、篠原涼子さんの幼いころに、母が事故死していたことが分かりました。
父は再婚するまで男で一つで子供たちを育て上げ、篠原涼子さんが芸能界デビューするまでサポートしてくれたそうです。
これからもますます活躍していってほしいですね!最後まで御覧いただきありがとうございました。
これからもますます活躍していってほしいですね!最後まで御覧いただきありがとうございました。
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