早乙女太一の実家はお金持ちで家柄がスゴイ!幼少期や子供時代の画像も確認

早乙女太一さんといえば、幼少期から舞台や映画で活躍し、「流し目王子」の異名で呼ばれていますよね。

大衆演劇の世界ではプリンスとあがめられ、ドラマ、映画などでも幅広く活躍しています。

そんな早乙女太一さんですが、実家がお金持ちという噂があるのです。

今回は、早乙女太一さんの実家について、調査しました!ぜひ最後まで御覧ください。

早乙女太一の実家はお金持ち?噂の真相を徹底調査!

福岡県北九州市出身の早乙女太一さんは、幼少期から劇団員だった両親と全国を回っていました。

そのため、ずっと福岡県内で過ごしていたわけではなく、毎月のように引越しをしていたそうです。

コロコロと家が変わるので、実家の現在は特定することは出来ませんでした。

ネット上では、実家がお金持ちでは?という噂もありました。しかし、それを裏付けるような証拠はありませんでした。

家族全員舞台に立って収入はそれなりにあったと思いますが、劇団の運営や全国行脚の費用など、出ていくお金も大きかったと思います。

【家系図】早乙女太一は家柄がすごかった!家族構成や兄弟も確認

早乙女太一さんは、「葵劇団」の劇団員だった両親のもとに長男として誕生しました。

父の葵陽之助(あおいようのすけ)さんは、葵好次郎座長に憧れて入門し、17歳で初舞台を踏みます。

1987年に「葵劇団」に入団し、2003年には「劇団朱雀」を立ち上げました。

母の鈴花奈々(すずかなな)さんも劇団出身で、14歳で初舞台を踏んでいます。

14歳で大衆演劇の世界に入ってからは、ひたすら舞台と子育て、劇団の運営に翻弄してきたようですね。

何度もリタイアを考えたこともあったとか。座長の奥さんとして、母として大変苦労したことでしょう。

大衆演劇の女優さんは、舞台のことに加えて裏の仕事が山のようにある。
毎日降りかかってくるアクシデントにハプニング。
それらをてきぱきサッサと片付けていかないと劇団は立ち行かない。
大衆演劇はスペシャルなのだより引用

劇団を影で支えてきた鈴花奈々さんが、とんでもない根性の持ち主であることは想像に難くありません。

ちなみに、父の葵陽之助さんとは、「オレと結婚しろ!って脅されたから」結婚したそうですよ(笑)

もともと演劇を通じて知り合った2には、10代の頃遊び仲間だったそうで、幼馴染同士の結婚だったようですね。

鈴花奈々さんは、早乙女太一さんの子育てについて、母として後悔があるようです。

幼い頃、早乙女太一さんは、歯医者で怖いのに泣かないで堪えて、歯医者が驚いて母親にそれを言うと、「可哀想な思いをさせてたな」と気づいたそうです。

4歳から舞台に立り、父の厳しい演技指導の毎日で、友人をつくる暇もなく転校を繰り返したことで、早乙女太一さんは笑わなくなっていったといいます。

母としては、息子の変わりゆく姿に胸を痛めたでしょうね。

早乙女太一の兄弟も舞台役者!

早乙女太一さんの弟・友貴さんは、1歳半で葵劇団の舞台『子連れ狼』の大五郎役に抜擢され、初舞台を踏みます。

6歳から本格的に舞台に出演するようになり、兄の背中を追うようになりました。

2012年9月には、早乙女太一さんが左足かかとを骨折してしまい、代役として舞台『MOON SAGA-義経秘伝-』に出演します。

劇団朱雀解散後は、大衆演劇座長公演を開いたり、フリーランスで活動しているようですね。

妹の鈴花あゆみさんは、3歳から舞台デビューをしています。長男の早乙女太一さんとは、10歳年齢差があるのですね。

あゆみさんが幼いころは、早乙女太一さんがお世話してくれたそうですよ。

早乙女太一さんの長女が誕生した際は、

「兄弟がいて、10歳下の妹もいるので、赤ちゃん(の世話)は経験がある。懐かしい気持ちもある」
オリコンニュースより引用

このように、妹の世話をしていたことを懐かしそうに振り返っていました。

早乙女太一の幼少期や子供時代の画像を確認!エピソードも

早乙女太一さんは、劇団員だった両親の指導のもと、4歳から舞台にあがっています。

父の指導はかなり厳しかったそうで、息子を一人前の役者に育てたい、という思いが強かったのでしょう。

「彼は4歳ころから大衆演劇の舞台に立っていました。旅の連続で、友達ができてもすぐに次の土地へ渡らねばならない。父親は殴る蹴るは当たり前で、プロとして彼を執拗なまでに厳しく育ててきた。」
日刊大衆より引用

1年中、劇団は全国の劇場や温泉センターを回り、旅芸人の暮らしの中で育っていきました。

幼いころから引っ越しの連続、かつ父から厳しい演技指導をうけていたとなると、過酷な少年時代だったでしょうね。

成長するにつれ、だんだん早乙女太一さんは笑うことをしなくなり、感情を殺すようになっていきました。

当時、早乙女太一さんは父に対し、恐怖心しかなかったそうです。

プレッシャーもはんぱなく、「花形なんだから我慢しろ」「自覚を持て」と言われてきたそうです。

早乙女太一さんは、その美しい容姿を活かし、女形として華やかな演技で観客を魅了してきました。

また、「座頭市」など、様々な映画作品にも出演しています。

劇団を率いてきた父親に、厳しい演技指導をされた賜物でもあるのでしょう。

心底やりたくて舞台役者になったわけではないと思いますが、関係なく舞台に立つのが当たり前の環境だったのですね。

精神的にも肉体的にも、かなりつらかったと思います。

殴る蹴るの演技指導というのは、いくら息子の成長のためとはいえ、厳しすぎる気がしますね。

その結果、舞台でも映像の世界でも、演技派俳優として大成功をおさめることとなりました。

まとめ

今回は、早乙女太一さんの実家について、紹介しました。

実家がお金持ちという噂があるのですが、全国各地を転々としていたため、確証は得られませんでした。

幼いころから父に厳しい演技指導を受けていたようで、かなり過酷な幼少期を過ごしてきたようです。

これからもますます活躍していってほしいですね!最後まで御覧いただきありがとうございました。

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