【画像】羽生結弦の卒アルを調査!頭いいし英語が得意?学生時代はいじめられてた!

フィギュアスケートの羽生結弦選手と言えば、10代のころから世界で活躍し、国内外でトップクラスの人気を誇る選手ですよね。

トップに立っても常に向上心を高く持ち、日々鍛錬を怠らない羽生結弦選手には尊敬しかないですね。

そんな羽生結弦さんですが、どのような学生時代を過ごしてきたのか、気になっている方も多いと思います。

今回は、羽生結弦さんの卒アル画像について、調べてみました。ぜひ、最後までご覧ください。

【画像】羽生結弦の中学時代の卒アルを確認!

羽生結弦さんは、宮城県仙台市出身です。仙台市立七北田中学校時代の画像はこちら!

まだあどけなさが残っており、とてもかわいらしいですよね。

この中学校は公立ですが、非常に優秀な生徒が多く、難関高校への進学率が高いそうです。

羽生結弦さんは卒業式当日、世界ジュニア選手権に出場するためオランダにいたので、卒業式には参加できませんでした。

帰国したあとに臨時の全校集会に出席し、校長室で一人だけの卒業式を開いてくれたそうです。

10名ほどのクラスメイトが一緒に参加してくれたそうで、素晴らしい仲間に恵まれたのですね。

すでに中学時代からフィギュアスケートの実力を発揮していた羽生結弦さんは、第28回全国中学校スケート大会で優勝しています。

練習や大会のため学校も休みがちだったのですが、空いている時間に問題集を解いたりと努力を重ね、学校の成績は優秀でした。

成績はオール5だったといいますから、すごすぎですよね。

登校できた日は掃除当番を率先してやったり、クラスに貢献していたため、同級生からはとても好かれていたそうですよ。

休み時間はで校庭でキャッチボールしたり、教室でジャンプをして遊んだりと、ごく普通の可愛い少年時代を過ごしてきました。

羽生結弦さんが仙台市立七北田中学校に入る際、あらたに「スケート部」が作られたのですが、最初は部員が羽生結弦さんのみでした。

中学3年生になるときは、部員が3人まで増えたそうですよ。

スケート部の顧問は、羽生結弦さんが授業中に手の挙げるときの美しさをほめていたということで、常日頃から美しい動きを意識していたようですね。

羽生結弦さんは後輩に「出る杭は打たれるけど、出過ぎると誰か引っ張ってくれる人がいるから頑張って」と応援していたといエピソードがあるんです。
羽生結弦さんは校内誌に載せるための文章なども手がけていたそうですよ。
レジュメディアより引用

中学卒業後、関東圏の高校からスカウトを受けていたのですが、羽生結弦さんは仙台で練習したかったため、東北高校に進学することを決めました。

この時点で海外進出もできたのですが、宮城県から出場したいという地元愛が強かったそうです。

「金メダルを取ったのが仙台出身だった」と、言わせるのが夢だったみたいですね。

羽生結弦さんの父・秀利さんは宮城県で中学校の校長先生をしていました。

公務員でしたが、ごく一般的な家庭だったので、お金がかかるフィギュアスケートは家計の負担になったようです。

そのため、着用する衣装は母が手作りしていたそうですよ。母は羽生結弦さんが海外遠征した際も、同行して食事面などサポートしていました。

羽生結弦さんのすらっとした体型や、抜群の運動神経は、母譲りだったようですね。

【画像】羽生結弦の高校時代の卒業アルバムを確認!英語が得意で頭がいい?

羽生結弦さんは中学卒業後、東北高校スポーツコースに進学しました。

この高校はスポーツに力をいれており、フィギュアスケートの荒川静香さんや、メジャーリーガーのダルビッシュ有さんらの母校でもあります。

卒アル画像を見てみると、すでに大人の羽生結弦さんになっていますね!

羽生結弦さんは、高校入学直前に世界ジュニア選手権で優勝し、ファイギュアスケートとの両立しやすい学校に入学したようですね。

すでに有名人だった羽生結弦さんは、常にサインを求める人があふれかえっていたそうです。

高校1年生でシニアデビューを果たしてからは、四大陸選手権で史上最年少銀メダルを獲得しました。

しかしその年に東日本大震災が発生し、ホームリンクは営業停止となってしまいます。

地震発生当時はアイスリンク仙台にいたそうで、リンクが割れてしまい、スケート靴のまま屋外に避難します。

リンクは倒壊を免れたものの、水道管が破裂して練習できない状態になってしまったそうです。

羽生結弦さんの自宅も被害を受け、一家は体育館で避難所生活を余儀なくされました。

羽生結弦さんの練習拠点であったアイスリンク仙台は、それから7月まで再開できませんでした。

毎日車で3時間かけて青森県八戸市へ練習しにいき、その後神奈川県横浜市で8ヶ月間練習し続けました。

羽生結弦さんは、この状況でスケートを続けるべきなのか悩んでいたのですが、先輩である荒川静香さんが背中を押してくれました。

一緒に練習することで意欲に繋がり、希望を持つことができたそうです。

また、大会後に体調を崩して休みがちだったときは、担任の先生が『学校に来ることで精神力を鍛えられる』とアドバイスされました。

そのため、日曜日の夕方に大会があったとしても、月曜日には休まず登校していたそうです。

それ以降はアイスショーに出演しながら各地を転々とし、高校2年生で全日本選手権3位、世界選手権で銅メダルに輝いています。

高校3年生になると、世界的に有名なカナダの「クリケットクラブ」に拠点を移し、名コーチに指導を受けました。

カナダに移住したことで、高校の卒業式は欠席したそうです。

さらに才能を開花させた羽生結弦さんは、4回転を2種類も成功させ、みごとショートプログラムの世界歴代最高点を更新したのです。

GPファイナルでは2位、そして全日本で初優勝を飾ります。羽生選手は2012年、高校3年生の時にブライアン・オーサーコーチに師事するためカナダのトロントに移り住みました。

羽生結弦さんは、中学・高校ととても成績優秀だったのですが、英語はあまり得意ではなかったそうです。

英語の授業は好きだったのですが、実際に外国人の方と話す機会はなく、苦手意識が強かったそうです。

そのため、カナダのトロントに移住した際は、ブライアンコーチとうまくコミュニケーションが取れなかったそうです。

”Yes”と答えるくらいしかできず、英語で会話するのも嫌で練習以外は引きこもりがちだったみたいです。

しかし、母が「ここで生活していくつもりで頑張れ」と激励してくれたため、英語へ向き合うようになったといいます。

それ以降は進んで外出するようになり、通訳をつけずに自らコミュニケーションをとるようになりました。

とにかく英語を使う機会を増やそうと、遠出をして自分を追い込んでいたそうです。

コーチや外国人選手とも積極的にコミュニケーションをとり、英語を使う機会を増やしました。

日本人同士で固まったり、日本語がわかる人としか接さないと、英語は上達しませんもんね。

最初は引きこもりがちだった羽生結弦さんですが、「いやでも英語を使うしかない状況」に追い込んだことで、英語が上達しました。

現地の英会話教室へ通っていたのも、自らの意思だったそうですよ。

英語がどんどん上達した羽生結弦さんは、大会のスピーチでも流ちょうな英語を披露しています。

ときには文法を少し間違えたり、完璧なわけではないですが、しっかり考えて自分の言葉で発しているのがすごいですね。

羽生結弦選手は高校卒業後、早稲田大学人間科学部通信教育課程に進学しています。

フィギュアスケートとの両立があり、7年半かかったのですが、努力を続けて卒業することができました。

通常の生徒の何倍もの課題をこなし、卒論も3万字もの大作を提出したそうですよ。

羽生結弦は学生時代いじめに合っていた?真相を調査!

羽生結弦さんは高校時代、いじめにあっていたことがわかっています。

すでに有名人だった羽生結弦さんの周りには、常に大勢の生徒がサインを求めてきたそうですよ。

トイレにいくのもボディガードつきで、アイドルのような扱いだったことに本人も困惑していました。

上級生からもサイン攻めにあう日々を送り、野球部員のサインに応じていた際は、「調子に乗るな!」と横やりが入り、ゴミ箱に投げ捨てられたことも。

東北高校の野球部は超名門で、甲子園常連でずっとちやほやされていただけに、羽生結弦さんが全てかっさらったことに嫉妬したようですね。

やがて同級生にもいじめられるようになり、羽生結弦さんの椅子に焼きそばを掛けられたこともありました。

いじめの当事者がツイッターでその画像をアップし、瞬く間に拡散されます。

羽生結弦さんはいじめられながらも、笑って投稿していたそうで、いじめた側を悪く言うことはなかったといいます。

本当にできた人間ですよね・・・!

ただ、つらくて学校が嫌いだったときもあったそうで、親しい友人には本音を漏らしたこともありました。

まとめ

今回は、羽生結弦さんの卒アル画像について、紹介しました。

学生時代から端正なルックスをしていた羽生結弦さん。かわいらしさとイケメンさを兼ねそろえていましたね。

学生時代はいじめにあったこともあったようですが、努力を重ねてフィギュアスケートのトップ選手となりました。

これからの活躍にも注目ですね。最後までご覧いただき、ありがとうございました。

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