女子スピードスケートにおいて、平昌オリンピック金メダルを獲得した小平奈緒選手。
オリンピックレコードも記録し、国民的アスリートとなりましたね。
そんな小平奈緒さんですが、学生時代の卒アル画像が気になっている方が多いと思います。
今回は、小平奈緒さんの卒アルについて、調べてみました。ぜひ、最後までご覧ください。
【画像】小平奈緒の中学時代の卒アルはある?
小平奈緒さんは、地元にある芽野市立北部中学校出身です。
残念ながら卒アル画像はありませんでしたが、当時の写真はいくつかありました。
今の面影があって、とってもかわいいですよね!
小平奈緒さんは中学2年生のときに、高校生だった吉井小百合選手をおさえ、見事優勝しています。
勝つイメージはしていたのですが、報道陣に質問されることまでは考えておらず、コーチに「準備不足だ」と怒られたそうです。
中学生ながらの快挙にレース後は報道陣に囲まれたが、何も話せず震えていたという。見かねた新谷さんは言った。
「勝って何を話すかまで考えなさい。記者の質問の答えまで用意して優勝しなさい」
RESUMEDIA
コーチの新谷純夫さんは、勝った先までイメージするように指導したようです。
新谷コーチは、バンクーバーオリンピック代表だった新谷志保美さんの父で、指導者としても高く評価されています。
小平奈緒さんは、新谷コーチの所属する「宮田クラブ」に入っていました。
学校のスケートクラブが終わって午後6時にいったん自宅に帰り、夜食を持って50キロも離れた宮田クラブへ通っていたそうです。
3年間ほぼ毎日この生活を続けていたそうですから、すごい努力ですよね。
新谷コーチは小平奈緒さんについて「練習の虫だった」と語っています。
全国中学大会では、500メートルで4位、2位、1位と、年々実力をつけていきました。
しかし、そんな小平奈緒さんをねたむ部活の先輩に無視されたり、得意種目から外されるといった嫌がらせにあったそうです。
両親はあえて見守り、「頑張れば誰かが評価してくれる」と、励まし続けたそうです。
【画像】小平奈緒の高校時代の卒アルを確認!文武両道で成績も良かった?
小平奈緒さんは中学卒業後、伊那西高等学校普通科進学コースへ入学しました。
高校時代の写真はありますが、卒アル画像は公開されていないようですね。
高校からは、実家を離れてコーチの家に下宿します。
駒ケ岳の麓の公園で走り込みをして、農道を全力疾走する日々でした。
竹やぶの急斜面を駆け上がり天竜川の堤防を自転車で全速力でこいだ。自慢の下半身はここで生まれた。練習後は孤独になり涙することもあった。コーチが運転する車で「奈緒は泣いた時あるのか?」と聞かれ、うなずいたこともあるという。
サンケイスポーツより引用
高校卒業時は、アルバムに「宝物はスケートぐつ」「好きな場所はスケートリンク」と書いていたそうです。
高校時代から努力を続け、練習に打ち込む日々を過ごした小平奈緒さん。
常にイメージトレーニングで、“試合に勝って表彰台にあがるまで”を思い描いていたそうですよ。
イメージした内容はノートに書き留め、振り返って読んでいたそうです。
大会の応援に行くと、「近寄りがたい、怖いくらい集中していた」。
練習ノートにスタート地点に立ってから表彰台に上るまでのイメージを克明に記載。「トップ選手はここまでやるのか」と担任教諭の奥田綾子さんは感心したという。
日本経済新聞より引用
小平奈緒さんは幼少期から、練習ノートに「五輪出場」と書き続けていたそうです。
その行動をずっと続けているのも、すごいことですよね。
イメージをを徹底的に叩き込むことで、現実のものとできるのでしょう。
アスリートといえど、小平奈緒さんは文武両道で、非常に成績優秀なんです。
高校卒業後は、スポーツ推薦のない国立大学である信州大学教育学部を卒業しています。
小平奈緒さんは遠征先でも勉強を欠かさず、学校を休む時は事前に先生から課題をもらい、メールで受け取って勉強していました。
「スケートが忙しいので勉強できない」と言い訳するのではなく、「勉強する時間を自ら作る」と考えていたそうです。
信州大学を選んだ理由は、長野オリンピックで清水宏保選手を指導した結城匡啓さんに学ぶためでしいた。
高校の全国大会で活躍した多くの選手が実業団に進んだ中、小平奈緒選手はあえて実業団からの誘いを蹴ったのです。
「もちろん実業団はスケートに集中できて、魅力的です。収入もあります。でも、そうした枠の中では自分は成長できない、と思いました。」
スポニチより引用
何年後かの未来の自分をイメージ、どうしたら伸び続けられるのか?と考えたそうです。
その結果、スケート以外の人と出会うことも大事な経験で、人間力を身に着けたいと思ったそうです。
スポーツ選手としては遠回りだったかもしれませんが、結果的に金メダリストが誕生したわけですね。
大学卒業後、小平奈緒さんは地元・長野県の「相澤病院」に所属します。
このときも実業団からの誘いを断り、地元である長野で競技を続けたい、という思いを貫いたそうです。
その後、23歳でバンクーバーオリンピックに出場し、女子団体パシュートでは銀メダルを獲得しました。
小平奈緒の学生時代はやっぱりスケート部?成績を調査!
小平奈緒さんは中学生時代、スケート部に所属していました。
地元である長野県芽野市はウィンタースポーツが盛んで、スケート部やスキー部のある学校が多いようですね。
部活で2時間ほど練習したのち、「宮田クラブ」で練習するというまさにスケート漬けの日々を送っていました。
そして、伊那西高校にはスケート部が無かったので、同好会で活動していたようです。
この高校は部活動に力を入れており、新体操部が強豪校として知られています。
中学時代から才能を開花させていた小平奈緒さんですが、クラブに入っていたこともあり、スケート部がない高校でも抵抗はなかったのかもしれません。
高校時代には全日本ジュニア大会で優勝するほど、実力を発揮しています。
高校生の時も頭の中はスケート一色で、「いかに早く走るためにはどうしたらいいか」を考えていたそうです。
幼いころから父に指導された、「自分で考える力」が備わっていたので、ここまでやってこれたといいます。
同好会でも進化し続けられたのは、自分で考えて行動していったからでしょうね。
まとめ
今回は、小平奈緒さんの卒アル画像について、紹介しました。
残念ながら卒アル画像は公開されていなかったものの、当時の写真はいくつかありました。
文武両道で勉強もスケートも全力で取り組んできた小平奈緒さん。その成果が金メダルにつながったのですね。
これからの活躍にも注目ですね。最後までご覧いただき、ありがとうございました。
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