天海祐希の学歴は?出身高校は菊華高校!高校は中退?宝塚時代の伝説も凄すぎる!

天海祐希さんと言えば、元宝塚の男役トップスターとして、今でも根強いファンを持っていますよね。

宝塚で培った抜群の演技力、そしてその人間性でも注目を浴びている女優さんですね。

そんな天海祐希さんですが、どのような学生時代を過ごしてきたのでしょうか。

今回は、天海祐希さんの学歴について、調査しました!ぜひ最後まで御覧ください。

天海祐希の学歴を調査!出身中学は?

天海祐希さんは、東京都台東区出身で、台東区立御徒町中学校(現:徒町台東中学校)に通っていました。

幼稚園生のときに、お遊戯会で先生に褒められたことから、「将来お芝居する人になる」と宣言していたそうです。

小学校のときも、演劇部に所属し、中学校2年生のときには、映画のオーディションで東京代表に選ばれたこともあります。

幼少期から身長が高かった天海祐希さんは、整列するといつも一番後ろで、男子よりも大きかったので、「デカ女」と呼ばれていたそうです。

中学時代は演劇部の主役を演じたり、生徒会の書記を務めていました。

当時の天海祐希さんは、反抗期が激しかったそうで、父も接し方が分からず困っていたそうです。

文化祭では、演劇部に男子がいなかったので、長身を生かして当時から男役をしていたそうですよ。

そのときの担任が宝塚ファンだったため、宝塚音楽学校への入学を勧められます。

そして、両親には1度だけ面接に受けると約束をして、宝塚音楽学校を受験することになるのです。

天海祐希の出身高校は菊華高校?中退して宝塚はトップ合格?

天海祐希さんの出身高校は、菊華高等学校(現:杉並学院高等学校)です。偏差値62ということで、天海祐希さんは、優秀な生徒だったのですね。

当時、友人が停学処分になったことに納得いかなかったため、職員室に行って抗議したこともあったそうですよ。

17歳のときには、資生堂のモデルに応募し、表紙を飾ったこともあります。

そこで「自分もやれる」と自信をつけたのですが、浮かれていたお父さんが激怒したそうです。

当時のギャラは10万円だったそで、この時から芸能界入りを意識します。

そして、宝塚音楽学校に合格した天海祐希さんは、高校2年生で菊華高等学校を中退しました。

現在の宝塚音楽学校は、高校卒業程度の資格を取得できますが、当時はそのような制度はなかったそうです。

宝塚音楽学校を卒業すると、ほとんどの人が宝塚歌劇団に入団します。

天海祐希さんは、新人の頃から注目を集め、史上最速のペースでトップに就任するスターでした。

宝塚の人から、天海祐希さんの母に、「よくぞ生んでくれました」と褒めたたえられた話は有名ですね。

宝塚音楽学校に進学する前から、バレエのレッスンや演劇の練習にいそしんでいた天海祐希さん。

高校入学後は、学業と両立して、大滝愛子バレエ・アートスクールでレッスンを受けていたそうです。

努力の結果、晴れて宝塚音楽学校に入学し、宝塚トップスターの道を歩んでいくのです。

当時、宝塚音楽学校の面接では、面接官に『今年落ちたらどうしますか?』と聞かれます。

両親との約束があったので、天海祐希さんは『もう二度ときません』と言い放ったそうです。カッコいいですね・・・!

そのあまりにもハッキリとした態度に、面接官も驚いていたそうですよ。

そして、天海祐希さんは1985年、宝塚音楽学校に首席で入学することとなります。

「天海祐希」という芸名は、父と相談して決めたそうですよ。

父親と相談し、漢字4文字、本名から一字と希望から「希」を使用、強運との姓名判断で言われている本名と同じ字画数の3つの条件から「天海祐希」「木条祐希」の2つの候補に絞られ、男役らしい「木条祐希」を選ぼうとしたが、副校長の「スケールが大きい」との助言で現在の「天海祐希」にした。
Wikipediaより引用

1987年には、宝塚音楽学校を卒業し、新人として宝塚歌劇団の一員となります。

天海祐希の宝塚時代の伝説がヤバすぎる?

天海祐希さんは、宝塚時代に数々の伝説を残していたようです。一つずつ、みていきましょう!

伝説①宝塚音楽学校現役トップ合格&卒業

宝塚音楽学校はとても競争率が激しく、現役で合格できるのはほんの一握りです。

そんな中でも、天海祐希さんは現役高校生で、トップ合格となりました。

宝塚歌劇団の演出家・植田紳爾氏が、お母さんに「よくぞ生んでくださった!」と感謝したというのは有名ですね。

中学時代に、宝塚音楽学校を勧められた天海祐希さんは、「宝塚であれば、芸事の全ての基礎を教えてくれる」と思ったそうです。

無事、17.5倍もの倍率を勝ち抜き、合格した天海祐希さん。入学前に合格者が集められ、校長先生の前で『1番で入ったので、答辞読んでもらうから』と言われたそうですよ。

宝塚音楽学校は、予科(1年生)と本科(2年生)の2年制となっており、受験資格は15歳~18歳に与えられます。

容姿端麗なだけでなく、「宝塚」に相応しい人間性が求められます。

受験できるチャンスは一人4回までで、毎年1,000人前後が受験し、入学できるのは40名だけです。

入学後は、舞台を想定したレッスンがあり、寮での生活が義務付けられます。

朝から晩までレッスン漬けの毎日を送り、礼儀作法も厳しく教育されます。

さらに天海祐希さんは、宝塚音楽学校を首席で卒業しています。入学と卒業、どちらもトップに輝くなんて・・・すごすぎます。

伝説②入団10ヶ月で新人公演主役に抜擢

天海祐希さんは、1987年に初舞台を踏みました。

初舞台公演の雪組公演『宝塚をどり讃歌/サマルカンドの赤いばら』では、新人公演で鮎ゆうきさんがしていた役を配役されたのです。

現在では、初舞台生は新人公演に出ないことも多いのですが、新人公演でいきなり役が付くのはすごいことです。

そして、月組に配属されたのち、バウホール公演では準主役に抜擢されます。

その後の大劇場公演『ミー・アンド・マイガール』では、入団10か月目にして、異例の初主演をつとめたのです。

伝説③ルールを変えた

宝塚劇団には、暗黙のルールがあり、「男役は髪をピンで止める」「学校の廊下で私語は話さない」「階段の上り下りは壁一列に沿う」「男役はリーゼントの毛1本も額に落とさない」というものでした。

しかし、天海祐希さんは「ピンをたくさんつける必要がない」と思ったので、ルールを変えてしまいます。

宝塚では、掃除や日常的なルールは先輩から教わることが多く、特に掃除は厳しいそうです。

ほうきで掃いて、雑巾がけ、粘着テープで木屑、毛1本残らないようにする、というのが鉄則です。

また、ピアノの鍵盤を綿棒で掃除することもあるそうで、トイレも頬ずり出来るほど、常にピカピカだったそうです。

しかし、天海祐希さんは宝塚に改革をもたらし、男役は何十本もヘアピンを付けるのは恥ずかしいので、ヘアスプレーで固めるのみで良いことになりました。

天海祐希さんは、謙遜をして、同期のみんなと決めたと話しています。

自分たちの後輩をどのように指導していくか、何日も話し合い、指導要綱をつくったそうですよ。

根っからのリーダー気質で、人望があるので、周りがついていきたい!と思うのでしょうね。

伝説④7年でトップスター就任

その後も月組で順調に舞台に立ち続けた天海祐希さんは、入団7年目でついにトップスターに就任します。

宝塚では、「男役10年」と、立っているだけで男性に見えたり、理想の男性像を違和感なく演じるようになるまで、10年かかると言われています。

それをわずか7年で、天海祐希さんは月組のトップスターになったのです。

天海祐希さんが退団してから、30年近く経っていますが、未だこの記録は破られていません。

伝説⑤トップ就任後2年で退団

天海祐希さんは、トップスターになってから、わずか2年で宝塚を退団しています。

もともと女優を目指して宝塚に入ったということもあり、トップスターをクリアした時点で、次の目標を目指したのかもしれません。

トップ在任中に阪神・淡路大震災が起こりて、退団を延期するよう交渉もされたのですが、本人の意思は固かったようです。

そして、1995年12月、28歳で宝塚歌劇団を退団しました。

トップスターは、およそ5年ほど活動するのが一般的なので、わずか2年での退団は異例となります。

「いじめがあった」という噂もあったのですが、天海祐希さん自身が真実を語っています。

月組のプロデューサーの方に先々のスケジュールを見せていただいて、その時にちょうど2年後の12月がパァーと光って見えているような気がしたの。
それが自分が大好きだった、一番最初に大きな役をいただいた『ミー・アンド・マイガール 』というミュージカルを再演しようと思うと言っていただいて、あっ、コレだ。コレで私はやめようと思って、私コレで辞めますと言った。
徹子の部屋より引用

何か光るものを感じて辞めるというのは、さすがスター。格が違いますね。

サヨナラ公演では、お見送りに5,000人が集まったといいますから、その人気の高さがうかがえますね。

伝説⑥フィナーレで大きな羽を背負わなかった

通常、宝塚の退団公演では、大きな羽を背負うことになっていますが、天海祐希さんは拒否しました。

ファンも、天海祐希さんが大きな羽を背負って出てくると思っていたら、あえて裏切られたのには驚きだったでしょうね。

サヨナラ公演でつける大きな羽根は、10kgするものもあり、天海祐希さんは普段から、小振りの羽根を好んでいました。

また、騒然とするファンを見ずに、仲間たちの方を見て感謝をしていたので、さすがの天海祐希さんです。

伝説⑦ファンへの塩対応

ファンが準備する、宝塚役者との交流会であるお茶会。

天海祐希さんも当然人気で、イベントは大混乱となりますが、その段取りの悪さにイライラしてしまいます。

写真撮影にもたついていると、「てきぱき動きなさい!さっさとやれば、その分たくさんお話しできる!」と怒ったそうです。

愛ある激怒ですが、ファンに怒鳴ることができるのは、天海祐希さんだけでしょうね。

もともと天海祐希さんは、ファンを平等に扱い、差別しないというスタンスでした。

退団時にはファンクラブでイベントがあるのですが、派手なイベントをしなかったそうです。

宝塚では入り待ちや出待ちがあり、ファンとスターが直接会って気持ちを伝える機会があります。

天海祐希さんは、本名の「ゆりちゃん」の愛称で親しまれていましたが、「塩対応」だったそうです。

ファンの出待ちを控えるように働きかけたのも、天海祐希さんでした。

公演が終わって、タカラジェンヌが帰るのは、夜10時過ぎになります。

そんな夜遅くに女性が外で待っているのは危険なので、客観的に冷静に考えた判断だったのでしょうね。

伝説⑧ファンを平等に扱う

天海祐希さんは退団時、ファンクラブ全員に、同じワイングラスをプレゼントしています。

長年ファンだった幹部クラスと、入りたての新人ファンの格差があるのが通例ですが、天海祐希さんは全員を平等に扱っていました。

今の宝塚ファンには、あまり元天海祐希さんファンを見かけないそうです。

ファンは贔屓が退団すると、次の贔屓に乗り換えるのが一般的ですが、天海祐希さんのファンはそのままについて行き、宝塚自体のファンを辞めたようです。

ファンが一生ついて行こうと思うほど、天海祐希さんにはカリスマ性があったのですね。

まとめ

今回は、天海祐希さんの学歴について、紹介しました。

地元の台東区立御徒町中学校から、菊華高等学校に進学し、高校2年生の時に、宝塚音楽学校に入学するため中退しています。

宝塚時代は数々の伝説を残し、入団7年目でのトップ男役就任という記録は、いまでもやぶられていません。

これからもますます活躍していってほしいですね!最後まで御覧いただきありがとうございました。

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