男子体操選手の白井健三さんといえば、後法伸身宙返り4回ひねりや、大技「シライ」など、「ひねり王子」として知られていますよね。
日本体操界のエースとして、どんどん強くなっていく白井健三さんですが、幼少期や学生時代が気になりますね。
今回は、白井健三さんの卒アル写真や、幼少期の画像について、調査しました!ぜひ最後まで御覧ください。
【画像】白井健三の中学の卒アルを確認!エピソードも
白井健三さんの卒アル写真を調査したのですが、どうやら公開されていないようです。
白井健三さんは、元体操選手で体育の教師だった父・勝晃(まさあき)さんと、おなじく元体操選手の母・徳美(のりみ)さんの間に、末っ子として生まれました。
父は学校の体育館を間借りして、体操教室を開いていました。そんな両親のそばで、白井健三さんはまだおむつをつけていたころから、体操に触れていました。
3歳のころから体操を始めたのですが、最初はトランポリンで遊ぶ程度でした。
そして、初めて体操の大会に出たのは5歳のときです。
勝晃さん(55)が経営する鶴見ジュニア体操クラブ。同クラブは現在2カ所に自前の練習場所を構えているが、開業当初は高校の体育館を間借りしていた。それでも、所狭しと並んだ体操器具はいずれも本格的なもので、幼い白井が遊ぶ器具は限られていた。
「最初は体もまだふにゃふにゃ。できることといえば一番安全なトランポリンだった」。勝晃さんは懐かしそうに言う。ただ、跳びはねている三男の楽しそうな姿の記憶はおぼろげだ。
Yahoo!ニュースより引用
この体操クラブが設立されたのが1999年で、まだまだ経営が厳しく、両親は幼い子どもの面倒を見る余裕がありませんでした。
レッスンを終え、夜遅くに帰宅しようとすると、白井健三さんはトランポリンの上で疲れ果てて、ぐっすりと眠っていたそうです。
母・徳美さんいわく、白井健三さんは、体操に触れる時間が他の兄弟よりも多かったそうです。
6歳上の長男・勝太郎さんや、3歳上の次男・晃二郎さんの2人を真似しながら、見よう見まねで飛び回っていた白井健三さん。
幼いころから体操の才能を開花させ、中学3年生の頃には、全日本選手権に出場するほどの選手になります。
床では内村航平さんに続く2位に輝き、「スーパー中学生」として注目されるようになります。
さらに、同じ年に、世界で未だ誰も成功していなかった「後方伸身宙返り4回ひねり」に成功しています。
【画像】白井健三の高校の卒アルを確認!
白井健三さんの高校時代の卒アル写真も調査しましたが、こちらも公開されていないようでした。
白井健三さんが入学したのは、進学校である神奈川県立岸根高校です。
白井健三さんは2013年に開催された世界選手権の床で、金メダルを獲得します。
入学後、いきなり高校1年生でアジア大会で優勝に輝き、「スーパー高校生」として知られるようになります。
高校2年生のときには、史上最年少で世界選手権に出場しています。
代表選考会で、「後方宙返り4回ひねり」に挑戦し、15.900点という高得点をたたきだします。
世界王者の内村航平さんは、「ひねりすぎて気持ち悪い」と評し、さらには、「こんな演技をされたら、僕も勝てるかわからない」とまで言わしめます。
2014年、白井健三さんは、世界大会種目別の床で金メダルを獲得し、『男子最年少金メダリスト』『初の4回転ひねり』というギネス認定を獲得します。
白井健三さん自身は、4回転ひねりについて「特別なことではない」と言っていました。
周りと比較し、自分のオリジナルとして追求したのがこの4回転ひねりだそうで、あくまで自然に習得したというのです。
そのため、このことが大々的に報道され、その反響にびっくりしてしまったといいます。
つづく2015年の世界選手権でも、床で金メダルを獲得し、2連覇を成し遂げます。
高校時代により一層注目を集めるようになった白井健三さん。
2017年に開催されたカナダ世界選手権では、個人総合で銅メダル、種目別床とあん馬で金メダルを獲得します。
2017年10月、床では自身の名前がついた「シライ」や、高難度な技を3つも取り入れ、2位と1.100点差という圧倒的な結果だったのです。
今大会の演技では、「まわりが演技前に優勝を諦めたように感じた」という白井は、航平さんもこういう感じだったのかなと思ったと振り返った。
今大会の戦果は国内だけでなく海外メディアでも報じられ、「唯一議論の余地のない王者はシライだった。1ポイント以上差をつけて優勝した」と評され、海外にも“床のキング”として認知されたという。
webmediaより引用
オリンピック・世界選手権あわせると、なんと計10個ものメダルを獲得しているのです。
あまりにもダントツの強さで、ほかの選手を圧倒していました。このときケガで出場できなかった内村航平選手も、白井健三さんをライバルとして認めていました。
当時、白井健三さんは内村航平さんのゼッケンをお守り代わりにしていたそうですよ。
高校卒業後、白井健三さんは、日本体育大学に入学します。
父、長男、次男、それぞれみんな日体大出身で、絶対王者の内村航平さんも入学した体操の名門大学です。
白井健三さんは幼少期から日体大の環境にあこがれ、畠田先生に教わりたいという気持ちもあったそうです。
白井健三さんは最終的に、「シライ」という名前がつく技を、床に3つ、跳馬に3つと計6つも所持しています。すごすぎますね!
白井健三のかわいすぎる幼少期の画像も確認!エピソードも
白井健三さんは3人兄弟の末っ子として生まれ、幼いころから可愛がられてきました。
幼少期の画像を見てみると、とっても可愛いですよね。もともと、目鼻立ちがとても整っていて、目がくりっとしていてとても可愛いです。
親からも末っ子ということで、かなり甘やかされて育ったそうですよ。
母の教育方針だったのですが、外で体操という厳しい世界で戦っているので、家の中では甘やかしていたそうです。
白井健三さんが小さいときは、「すごいね」「大丈夫だよ」としか言っていなかったとか。
ちなみに、昔から白井健三さんは丸坊主ですが、兄2人が高校卒業するまで坊主だったため、自然とそうなったそうです。
父の教育方針だったのですが、白井健三さんは顔が整っていますから、坊主も似合いますよね。
幼少期から抜群の運動神経を誇っていた白井健三さんは、5歳のときに体操の大会に初出場を果たします。
6歳になるころには、バク転を10回連続でこなし、驚異のスピードで進化していきました。
しかし、白井健三さんにもスランプがあったそうです。
中学1年生のとき、ナショナル強化選手から外れてしまい、モチベーションがどんどん下がっていったそうです。
こつこつやる基礎練習に嫌気がさし、練習をサボりがちになってしまったのです。
なかなか練習に身が入らない日々が続く中、内村航平選手が声をかけます。
「もう少しちゃんと練習しないと伸びていかないよ」
小学6年生のとき、内村選手から「きみはとってもひねりが上手だね。19歳か20歳になったら僕と一緒にオリンピックに出よう」と言ってもらった嬉しさでがんばってきたのに、このままではダメだ、とやる気が芽生えてきた健三選手。
スポーツ報知より引用
このことがきっかけで、もう一度頑張ろうと思いなおせたそうです。
さらに、白井健三さんが中学2年生のときに、父が設立した「鶴見ジュニア体操クラブ」も大きな転機となりました。
特製トランポリン「タントラ(タンブリング・トラック)」を使うと、楽しく練習ができたそうです。
この体操クラブには水口晴雄コーチがいて、「体操を楽しむ」という指導を受けたことも大きかったといいます。
「水口先生と出会ってからは、一度も自分から練習をサボったことはありません。けれども、やらなきゃいけないという感じがあったわけでもなく、自発的に練習に行きたくて行っていたのです」
スポーツ報知より引用
偉大なる先輩・内村航平選手からのアドバイスや、周りのサポートに助けられ、白井健三さんはどんどん成長していきます。
12歳のときに卒業文集に「オリンピックで金メダルを取る」と書いた白井健三さん。その7年後、リオオリンピックで夢がかなうことになります。
まとめ
今回は、白井健三さんの卒アル画像や、幼少期の写真について、紹介しました。
残念ながら卒アル写真は公開されていなかったものの、昔の写真を見るととっても可愛かったことが分かりました。
幼いころから体操選手として頭角を現し、今や体操界のエースとして活躍している白井健三さん。
これからの活躍も期待したいですね!最後まで御覧いただきありがとうございました。
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