山縣亮太の出身地は広島?経歴や生い立ちを調査!未熟児で体重がヤバかった?

まもなく開催される東京オリンピックにて、男子陸上100m日本代表に選ばれている山縣亮太さん。

子供のころから走るのが大好きな少年で、中高大学とずっと第一線で活躍してきました。

そんな山縣亮太さんの出身地が気になる人も多いと思います。

今回は、山縣亮太さんの出身地について、調査しました!ぜひ最後まで御覧ください。

山縣亮太の出身地は広島?調べてみた

山縣亮太さんは1992年6月10日、広島県広島市西区で誕生しました。

広島県広島市西区鈴が峰が地元の陽で、山縣亮太さんの父方の曽祖父である山縣貞一さんは、刃物商を営んでいたことで有名だそうですよ。

山縣貞一さんの自宅は、原爆資料館の敷地内にあったそうで、原爆資料館に特別展示されるほどの貴重な資料が残っているそうです。

山縣亮太さんが実家に帰省した際は、家族みんなで曽祖父のお墓参りをしています。

山縣亮太さんの父・浩一さんは、『誉め続けること』をモットーに子育てをしてきたそうです。

勉強をやりなさいと言ったり、悪いところは当然怒りますが、陸上のことで怒ったことはないそうです。

陸上ではどんどん記録を伸ばす山縣亮太さんに対し、常に褒め続けることを意識していたといいます。

その教育方針のおかげか、山縣亮太さんはどんどん才能を発揮していきました。

「9秒97とか96とか、日本新が出る映像を夢見ながらレースを見るんです。実際は本当に頭が真っ白になって、現実とは受け入れられなかった。願いはかなうなという、いい経験をさせてもらった。願わないとダメですね。本当に親孝行です」
スポーツ報知より引用

山縣亮太さんは超未熟児という危険な状態で誕生したので、両親の心配も計り知れなかったとおもいます。

現在の活躍は、両親も安心して応援することができるでしょうね。

山縣亮太の経歴や生い立ちを確認!

山縣亮太さんは、小学3年生のときに兄が学校の代表として100m走大会に出場し、入賞したのを目の当たりにしました。

山縣亮太さんは兄が賞状をもらったのが嬉しくて、「来年の大会に出たい」と思い、翌年同じ大会に出場します。

すると、2位以下を大きく引き離し、断トツぶっちぎりで優勝しました。

兄が大会で入賞しなければ、現在の山縣亮太さんはいなかったかもしれませんね。お兄さんの影響力がとても大きかったのでしょうね。

山縣亮太さんは幼少期から体を動かすことが大好きで、サッカーと野球をやっていたそうです。

実はその頃からメダルと賞状が大好きな少年だったそうです。

大会に出場して賞状とかをもらえるのが嬉しくて(笑)。そんな時、2歳上の兄が陸上の大会で8位入賞の大きな賞状をもらってきたんです。すごく羨ましくて、僕もその大会に出て賞状がもらいたいと思ったのが陸上を始めたきっかけですね(笑)。
週刊スポーツより引用

小学校4年生のときには、広島ジュニアオリンピアクラブにスカウトされ、本格的に陸上をスタートします。

当時は陸上クラブ自体が少なかったのですが、陸上の有名な選手も通っていたクラブだったそうです。

しかし、当時はプロ野球選手になるのが夢だったそうで、野球、サッカー、陸上をかけもちしていたとうなんともパワフルな少年でした。

そして、私立の中高一貫校である修道(しゅうどう)学園に進学しました。

広島県広島市にある私立の中高一貫校で、偏差値63~70の超難関校です。

文武両道を掲げており、部活動も盛んで国公立への進学率もかなり高いのです。

脚本家の遊川和彦さんや、元内閣総理大臣の加藤友三郎さんなど、多くの有名人の母校でもあります。

陸上ではインターハイに出場するほどの成績をおさめており、山縣亮太さんの父親の母校でもあるので、この学校を選んだのでしょう。

中学校時代は100mと400メートルリレーで成績を残し、高校二年生のときにはイタリアでおこなわれた世界ユースで4位に輝いています。

高校卒業後は慶應義塾大学総合政策学部に進学しました。慶應競走部の自由な環境が自分に合っていると感じたそうです。

慶応義塾大学も偏差値72.5ととても高い大学で、山縣亮太さんがいかに成績優秀だったかが分かりますね。

陸上でも大活躍しながら、成績も常に優秀だったそうですから、完璧すぎますね!

そして、山縣亮太さんは大学2年生のときにロンドンオリンピックに出場しています。

100mで準決勝に進出し、4×100mリレーでは4位に入賞しました。

大学時代はスポーツビジネスのゼミに所属し、卒業論文は「日本人の短距離選手が米国で良好な競技環境を得るための考察」という内容を書きました。

山縣亮太は未熟児で誕生?出生時の体重がヤバかった?画像も探してみた!

山縣亮太さんは、出産予定日より2ヶ月早い早産でうまれ、超未熟児だたそうです。

出産時の体重が1730gしかなく、内蔵機能も未熟なので、かなり危険な状態でした。

肺の機能も万全でなく、2カ月間新生児集中治療室(NICU)で過ごし、両親は気が気ではありませんでした。

このエピソードは、NHKの「プロフェッショナル」でも特集されていましたね。

山縣亮太さんは、2020年6月16日放送の「プロフェッショナル仕事の流儀」に出演され、日本選手の100mオリンピック記録を2大会連続で更新してきた陸上短距離のエース。未熟児で生まれ、逆境を乗り越えるたびに強くなってきた“ミスター逆境”の流儀。として紹介されます。山縣さんは、今のお姿からは想像がつかないのですが、未熟児として生まれました。
小学校に入るまではよく病気をしていたので、ご両親も心配されていたようです。
NHKより引用

2カ月も早く誕生した山縣亮太さんは、体にチューブが通され、弱弱しい呼吸を繰り返していました。

父親・浩一さんのノートには、「助けてください」「亮太が無事に育つことを祈る」と書かれていました。

1年間外出禁止となった山縣亮太さん。その禁止令が解かれた日に、三重県の伊勢に出かけたのですが、発作で緊急入院してしまいます。

それほど危険な状態だったのですが、なんとか回復し、元気いっぱいに走り回れるようになっていきます。

小学生になるとさらに運動神経が上達し、誰に教わらずとも徒競走で1位をとるようになります。

特別なトレーニングを受けることも無く、誰にも教わらずに結果を出すというのは、すごいことですよね。

山縣亮太さんはそんな経験をしたからこそ、家族へ感謝の気持ちは絶対に忘れないといいます。

いまでも朝起きて一番に、故郷・広島を向いて手を合わせるというのが、山縣亮太さんの日課です。

まとめ

今回は、山縣亮太さんの出身地について、紹介しました。

広島県広島市西区鈴が峰が地元で、高校までは広島県ですごしていたようですね。

文武両道で名門の高校・大学に進んで、陸上でも結果を残してきた山縣亮太さん。未熟児で生まれたのは意外でしたが、回復して運動神経抜群の少年に育ってよかったですね。

これからの活躍も期待したいですね!最後まで御覧いただきありがとうございました。

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